【スタッフ・ブログ】国際NGO ワールド・ビジョン・ジャパン

Read Article

モロッコでの経験

NGOで働く前は何をなさっていたんですか?」
この質問も多くの方から頂く。
もうそれは20年以上も前の話であるが、私は青年海外協力隊員として、北アフリカモロッコと言う国へ派遣された。
職種はなんとバレーボールであった。

当時の私は大学の文学部を卒業したが、正式な就職もせずフリーターに近い生活を送っていた。
そんな我が身を思うにとき、途上国の人々を助けるために現場で汗を流す協力隊員になる事など夢のまた夢であった。
ただ、夢をみるのは個人の自由である。 厚かましくも私は、協力隊事務局から無料で資料を送ってもらい、150以上ある募集職種のリストをベットの横になりボーと眺めていた。 そして一つの職種に釘付けになってしまった。 “バレーボール” 「もしかしてこの職種なら合格するかも、、。」と思った。 私は途上国で役に立つような技術も資格も経験もまったく無かった。
しかし、中学から大学まで熱心に取り組み、人一倍努力した唯一のものがバレーボールであった。
善は急げとばかり早速応募し、幾つかの試験を受け、ぎりぎりであったが見事に合格した。芸は身を助けるとは良く言ったものだが、まさかバレーボールであこがれの協力隊に参加できるとは思わなかった。
人生の転機、日陰にそっと咲く草花のような慎ましいフリーター生活から、夏の太陽の下で眩しいほどに咲き誇るヒマワリのような青年海外協力隊員に!

3ヶ月間の東京での派遣前訓練と1ヶ月間のフランス、ヴィッシーでの語学研修を無事に終え、1985年4月、任国のモロッコ王国の首都、ラバト市に派遣された。 「さぁー、ここが私のステージ。観客であるモロッコの人々は協力隊員というヒ-ローの到着を待っているに違いない。」 そして幕が上がりスポットライトに照らされる自分の姿を想像していた。 しかし現実は違った。私は人々にヒ-ローとして期待されてはいなかった。かえって東洋人として人種差別に近い蔑視を経験した。 またある時は、協力隊員は単なる人件費の掛からない勤勉なワーカーとして扱われた。 私の配属先は、国立体育大学で将来教師や公務員になる学生にバレーボールを教えた。
勿論私の仕事を評価してくれ感謝してくれた人もいたが、私自身は直接モロッコの人々の生活向上に貢献しているとは思わなかった。

それでは、日本国民の税金で支えられた私のモロッコでの2年間の隊員生活は無駄だったのか?
私はそうは思っていない。 モロッコでの経験がなかったら、ワールド・ビジョン・ジャパンで途上国の支援活動に携わることはなかった。
また、アラブ独特の複雑な人間関係の中で働いたことで、難しい相手と上手に仕事を進めるにあたっての駆け引きや落としどころの見極め、論理的に押すことと感情的に押すことの使い分け等を身に付けることが出来た。 つまり日本人として外国人との良好な人間関係の作り方を様々な経験から学んだ。 これは現在の仕事に大変に役に立っている。
なぜならば、人間関係の構築なしに進められる海外援助事業は、この世に存在しないからである。

アラブ諸国やアフリカ諸国などでも共通していることだが、モロッコでも人間関係の基本は挨拶である。 これを欠いては回りは敵だらけになってしまう。 朝、同僚や生徒と合えば必ず挨拶から始める。声を掛け合い、硬い握手をし、お互いの頬と頬を付けて抱擁することから全ては始まるのだ。                      ※抱擁は同姓同士の間だけだか、、。
モロッコでは、殆どの男性が髭を蓄えているので、男同士の抱擁は気持ちの良い物ではなかったが、人間関係構築の儀式として耐えた。

また、モロッコではよく家族のことを口実に仕事を休んだり、依頼を断ったりする。“お母さんが病気だから” “お父さんが許さないから”等々の言い訳である。 モロッコの人々は大変に家族を大切にする。兎に角、家族の事は優先順位が高く、許されるべき事項なのである。
当初、家族より仕事を優先させる日本人としては、これらの家族がらみの口実に憤り、落胆した。しかし、彼らの家族中心の文化に触れながら、人の生活の中心は、本来家族であるべきと考えさせられるようになっていった。

そんなあるとき、住んでいた近くの通りに黒山の人だかりができていた。事故か何かだろうと思い、人垣をかき分けてに入ろうとしたが、
中々先に進めない。 状況を打開すべく、口からでまかせで「家族の者だ!」 「家族の者だ!」と叫びながら前へ進もうとすると、群集は私の顔をジロジロみながらも先に通してくれた。 やはり家族を出すと効果があるようだ。
そしてやっと人垣の中心に行き着くと、そこには車に引かれたロバが倒れていた・・・・。
モロッコでの貴重な経験であった。

因みに、現在ワールド・ビジョン・ジャパンでは、他の3名の有能な元青年海外協力隊員が働いている。

コンゴDRCのプロジェクト・ワーカーと共に 2006年2月

コンゴDRCのプロジェクト・ワーカーと共に 2006年2月

この記事を書いた人

高瀬一使徒
大学卒業後オーストラリア留学などを経て、青年海外協力隊に参加モロッコに2年間滞在。1989年にワールド・ビジョン・ジャパン入団。タイ駐在などを経て、1997年より支援事業部部長(旧 海外事業部)。現在までに訪れた国数約85カ国。4人の子どもの父親でもある。2014年3月退団。
このスタッフの最近の記事
Return Top