1991年、初めてベトナムの地に立ったとき、私の想いは特別なものであった。何故ならば私にとって中学から大学生までの多感な時期とベトナム戦争とは完全にオバーラップしており、毎日のように報道された戦争の悲惨な映像は、世間知らずの純粋な若者の心に「正義は何処にあるのか?」「平和な日本人のなすべきことは何か?」NGOのスピリットのような思いを抱かせた。
正義については、複雑で悶々としていた。無差別に市民に爆撃を繰り返す米軍が正しいとは思えなかったが、当時の東側政治体制や学生運動がよいとも言い切れなかった。だが、日本人としてできることは単純に思われたので、ベトナムの子どもたちのためにせっせと小銭を貯めて、年末には関係支援機関に募金を送っていた。
1975年戦争は終結し、ベトナムは社会主義国家として東側諸国と連携して国づくりをしていった。ところが経済発展はなかなか進まず、人口の80%以上といわれる農民たちの貧困は解消されることもなかった。
この状況に対し1980年後半に政府指導部は市場経済を取り入れ私有財産も認めるドイモイとよばれる大胆な経済刷新政策を取り入れた。また敵として戦った経済大国アメリカとの関係修復にも積極的で、そんな影響から、驚いたことに当時のWVベトナム事務所の代表は、兵士として当地に従軍したアメリカ人であった。
空港で代表と現地スタッフ(女性)から歓迎をうけた私は、日本製の4WDに同乗しハノイに向かう幹線道路を走っていた。そして代表が説明する戦争の爪痕が未だに残っている其処の外の景色にくぎ付けになっていた。
車がハノイ市内に入ると、まるでバッタの大群のような自転車の波にしばしば行く手を阻まれた。波な中の人々は、女性はアオザイをまとい、男性は深緑の軍人がかぶるヘルメットのような帽子をかぶっていた。それらは20年前にテレビで見たものとまったく変わらなかった。そして“今は平和だ”と自身に言い聞かせていた。
その夜は、代表と現地スタッフに連れられて市内で人気の地元料理を食べさせるレストランに行った。それは大きなレストランで中は薄暗かったが、たくさんの家族や地元のグループが楽しそうに食事をしていた。
私たちは案内されたテーブルに座りベトナム料理を満喫した。1時間ほど経ったであろうか食事を終えた私たちが、店を出て通りの向こうに駐車した車に乗ろうと歩き出したときである、私たちが出てくるのを待っていたかのように小学低学年ほどと思われる男の子が、片言の英語でギブ・ミー・マネーを連呼し手を差し出してくる。
そして暗がりの中に少年の後を這うようにつてきた同年齢と思われる少女の存在に気付いた。見ると彼女の右足は太もも部分からなく、キャスターが付いた木板の上に座り、下駄のようなものを両手に持ち、それを漕ぎ手にして左足で地べた蹴りながら移動していた。彼女の手足は勿論のこと、顔も長い間の土埃と汗で黒光りがしている。私はその姿をとても直視することは出来なかった。
彼らは、このレストランにくるお客さんを目当てに物乞いをして生活しているストリート・チルドレンであった。代表は二人と知り合いらしくニコニコと対応しているが、差し出された手にお金を渡すことはなかった。そして固まっている私に、「この女の子は交通事故で、右足を無くしたらしい」と説明してくれた。
また代表は、「彼らは誰からも嫌われ無視され、時には大人から暴力を受けることもある。この子たちにお金を渡すことは良くないが、優しい言葉をかけて仲よくすることはできる。彼らはお金ばかりではなく、愛情にも飢えているから」と説明する。
しかし先ほどの食事で満腹の私は、やせ細った障がいを持つ少女を前に将来の彼女のためにならないからという理由で肉体的な必要充たせるお金を渡せない自分を説得できないでいた。そして密かにある決意をしていた。
20分後、宿泊するホテルに到着し代表とはロビーで別れた。そして、また外に出てホテルの前で客待ちをしているシクロとよばれる自転車タクシーに乗り、小さなメモ用紙を渡した。その中には現地スタッフにベトナム語で書いてもらったレストランの名前が書かれてあった。タクシーはすぐに理解し、ペダルを踏みだした。
先ほどのレストランはホテルから1キロ程度の距離であったが、途中にパンや果物を売る店があったので、そこで何とか食料を調達した。そしてあの場所に戻ってみるとまた2人が道の脇から出てきた。
今度は代表のような笑みを浮かべて、取りあえず英語で”Please take this present” といって調達した食料を渡した。二人はキョトンとしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべて食料を受け取った。言葉のできない私は二人の頭をなでて握手をして、待っていてもらったシクロに乗って早々にホテルに戻った。
翌日は、事務所で正直に昨夜のことを代表に話したが、特に叱る事もせずにニコニコしていた。それから中部の都市ダナンに飛び、そこで1週間ほど特に弱い子どもたちのニーズ調査をした後、再びハノイに戻った。
そして今度は現地スタッフと二人であの子どもたちに会いに行った。彼らは前と同じようにそこにいたが、今度は現地スタッフが通訳をしてくれたので、色々な話を聞くことができた。
男の子は、色々な事情で家族が崩壊し、家を飛び出して路上で物乞いをして暮らしているという。女の子は地方の出身でハノイに出てきてから交通事故で右足を失ったらしい。
現地スタッフがさらに女の子に尋ねていると、急に語調が激しくなり何度も少女に確認しているようであったが、少女は相変わらず無表情に小さな声で答えている。数分後、興奮した現地スタッフが私に説明してくれたその内容は信じがたいものだった。少女はなんと22歳だというのだ。
むかし田舎から家族を助けるためにハノイに働きに出てきて、そこで交通事故に会い、何とか一命は取り留めたものの今の状態になってしまった。そして田舎では家族の負担になると、再びハノイに出てきて物乞いをし、時には幾ばくかのお金を田舎の家族に送ることもあるというのだ。
男の子とはここで知り合い、彼は親切にも彼女を助けながら二人で物乞いをしているというのだ。私も現地スタッフもすっかり言葉を失っていた。ベトナムの人は小柄で童顔だが、彼女が22歳とは私ばかりでなく現地スタッフも信じられないようだった。取りあえず、私自身の自己紹介をしてまた来るからと伝え、それから持ってきた食料を彼らに渡し、今度は少女の頭を撫でることは控え二人と握手だけをしてそこを立った。
明日は帰国の日である。ホテルの部屋に戻った私はずぅーと考えていた。
“すべても人民に平等の権利や機会を付与してくれる政府の実現のために戦い多くの血が流され、そして勝利した。それがベトナム戦争だったのではないか。でもあの少女のようにそんな理想の政府にすら救えない子どもたちがいる。そしてストリート・チルドレンの救済は、WVの支援活動計画の中にも入っていない。でも私のなすべきことは何だ”
翌日、空港へ向かう前に代表と最後の打ち合わせの時をもった私は、どうかあの二人を助けてほしいと懇願していた。代表はニコニコしてうなずいてくれた。そして帰国して暫くたってベトナムの代表から手紙が届いた(当時Eメールはなかった)
その中には、あの男の子が事務所の敷地で寝泊まりし、時々、雑用をしてもらって小遣いをあげていることが書かれてあった。そして同封された写真には、事務所の車を洗っている男の子の笑顔があった。女の子の方は探したが見当たらず、現地スタッフが調べたところによると、バスで田舎に帰って行ったという。私は事務所の中で思わず泣いていた。
この記事を書いた人
- 大学卒業後オーストラリア留学などを経て、青年海外協力隊に参加モロッコに2年間滞在。1989年にワールド・ビジョン・ジャパン入団。タイ駐在などを経て、1997年より支援事業部部長(旧 海外事業部)。現在までに訪れた国数約85カ国。4人の子どもの父親でもある。2014年3月退団。
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