最近、どうもお米に対する愛情表現が上手くできない。
それは、お米の研ぎ方が荒くなってきたとか、食後のお茶碗に残る米粒が増えてきた、とかいう話ではない。むしろ、湯気だった白米を見つめた時に心に湧き上がる、日本の伝統的主食としての誇りに、わずかな戸惑いが生じている、という話だ。
ラテンアメリカ、特に中米と呼ばれる地域では、お米にましてトウモロコシが圧倒的な主食作物としての地位を占めている。タコスに使われるトルティージャは有名だが、そのほか、エルサルバドルの国民食「ププサ」を始めとして、各国地域で、ヨダレを誘う香ばしいトウモロコシ料理が中米の食文化を比類無きものにしている。昨年の暮れ、事業訪問で訪れた現地の屋台でププサを食べてからというもの、日本人としてのアイデンティティが静かに揺らいでいる。
チャイルド・スポンサーシップ(Child Sponsorship)
中米の小国エルサルバドルで2005年から始まったティアラ・ヌエバ事業は、今年で終わりを迎えようとしているチャイルド・スポンサーシップ事業の一つだ。
この地域の子どもたちを養ってきたのは、ププサだけではない。19年におよぶ、日本のチャイルド・スポンサーの方々の支援が、子どもたちを囲む環境を豊かなものに変えてきた。
チャイルド・スポンサーシップとは、文字通り、寄付してくださる方がスポンサーとなり、途上国等、困難な環境におかれるチャイルド(子ども)を継続的に支援する寄付形態*である。
20世紀初頭から後半にかけて世界中で広がり、今も年間30億米ドル ともいわれる驚異的な経済規模で子どもたちの人生にインパクトを与え続けている。ワールド・ビジョンはその爆発的拡大の火付け役と言って良いが、現在に至るまで、多くの支援団体が同様の寄付形態を導入した。今日、「遥か遠くに住む子どもを経済的に支える」ことは、多くの人にとって、少なくとも「なんか聞いたことあるようなハナシ」位にはなっているのだろう。
*チャイルド・スポンサーシップについて詳しくはこちら
パンをちぎって
チャイルド・スポンサーシップがこれだけ広がったことには、きっと理由がある。 寄付という支援でありながら、そこには、ただ「お金をあげる」に留まらない価値があるのかもしれない。
異なる環境に暮らす子どもの同伴者となり、子どもの成長を見たり、手紙を交換したりといった交流が喜びとなる場合もあるだろう。とある保護者の方は、「自分の子どもと同い年のチャイルドを支援しています。自分の子どもの存在が、一人でも多くの子どもを思う気持ちに繋がりました」と教えてくれた。支援の意味付けは、きっと人それぞれである。
一昨年に若くしてこの世を去った医師であり、人類学者でもあるポール・ファーマーは、「同伴する」と訳されるAccompanyという英語の動詞を説明して、こんなことを言っている。
誰かに同伴する、ということは、その人と一緒にどこかに行くこと、一緒に食事をすること、一定の間、旅をともにすることです。-中略- 同伴することには、ミステリー的な要素と、(不可知性を受け入れる)開放的態度の要素があるのです
Accompaniment as Policy (25 May 2011) 拙訳、括弧内訳者
なるほど、誰かと一緒に食事や旅をすると決断するとき、その「ともに過ごされる未来の時間」は、どんなものになるかわからない。楽しいかもしれないし、楽しくないかもしれない。それにも関わらず、時間をともにすることへのコミットメントを表明する。同伴とは、相手とともに不可知の未来を歩もうとする、そんな行為である、と。Accompanyのラテン語の起源は、ともにパンを分かち合う(ad cum panis)なのだそうだ。
チャイルド・スポンサーシップは、名前の見えない不特定他者への寄付とは異なる意味で、誰かに「同伴する」行為といっていいだろう。自分のもっているお金であるププサ、いやパンをちぎり、特定の他者と一緒に食べようとする。そんな支援なのかもしれない。
パンを受け取って
ちぎられたパンは、この19年間の間、エルサルバドルの人々にとってどのような意味があったのだろう。
地域の子どもたちを包括的に支援する活動によって、安全な飲料水へのアクセスは向上し、子どもの病気を予防する保健システムが整備され、学校環境が整い、愛情をこめて子どもを育てる家庭環境形成が促されるなど、数々の成果があった。
こうした具体的な指標の変化は、パンを受け取った人々にとって、支援がなければ実現しなかったかけがえのない現実だろう。だけれど、それ以上に僕の記憶に焼き付いているのは、受益者の人々が「チャイルド・スポンサーの心に想いを馳せる」という行為それ自体だ。
「日本の人々が、多くの場合、有り余るお金があるからではなく、限りある、皆さんの持てる中から支援を送ってくださったこと、わたしたちは本当に感謝の想いでいます」
こう話してくれたのは、マリさんというボランティアの女性だ。彼女自身はチャイルドでも保護者でもないのだが、この地でチャイルド・スポンサーシップが始まってからこのかた、ワールド・ビジョンとともに地域の発展に尽力してきた。
マリさんは、19年の間、「支援の受け手」として働くなかで、「支援の差し出し手」の人々に思いを馳せずにいられなかったのだろう。日本のチャイルド・スポンサーの方たちが、いつだって「限りある」パンを分かち合ってくれていること、中には、失業や経済的困難の最中にあってもなお、強い意志をもってスポンサーを続けてくださる方さえいることに、短いインタビューで彼女は繰り替えし感謝していた。
数字が表しえないもの
今日、世界の課題解決に向けてわたしたち一人ひとりにできる貢献は無数にある。お金を送るという経済的な国際支援はそのあり方の一つだ。だけど、自らの意思で差し出されるお金は、いつだって、お金であってお金でない。手に持っているパンを割こうとする行為には、その人のストーリーに結び付いた「想い」が込められている。もし、ポケットからお金を差し出した一人ひとりの願いや想いが、事業地で汗をかく人々の「想い」に交わらないとしたら、それはあまりに勿体ないことだろう。
マリさんのように、現地の人々が同伴者の想いに心を寄せながら歩んだ 19 年は、パンをちぎった一人ひとりと、それを受け取った一人ひとりとがともに歩んだ旅としての意味がある。
チャイルド・スポンサーシップを美化したいわけではないし、すべての支援形態には長短がある。でも、同伴という旅 ――それは、本質的には、 限りある人生というパンを、誰かとともに分かち合うということなのだろう―― を支え、「すべての子どもの豊かないのち」**のためにと差し出された手と受け取った手の間の「想いを運ぶ」ことは、私たちNGOにとって、限りなく大切に違いない。市民社会組織としてのNGOの意義はそこにあるのだから。
**ワールド・ビジョンのビジョン・ステートメント:
私たちのビジョンは、すべての子どもに豊かないのちを
私たちの祈りは、すべての人の心にこのビジョンを実現する意志を
Our Vision for every child, life in all its fullness
Our Prayer for every heart, the will to make it so
関連リンク
・3分でわかるエルサルバドル ~エルサルバドルって、どんな国?~
・エルサルバドル共和国:子どもたちはこんな支援地域で暮らしています
この記事を書いた人
- 東京外国語大学スペイン語学科卒。中米メキシコのMUFG Bank (Treasury & Market)にて勤務、並びに現地ホームレス支援NGO Mijesに従事した後、米ノートルダム大学Keough School of Global Affairsにて開発学修士課程修了。南米チリの教育系NGO (Enseña Chile) にて、Graduate consultantとして学校改善プロジェクト実施後、外務省国際協力局開発協力総括課にて勤務。2021年3月にワールド・ビジョン・ジャパン入団。支援事業部にて、複数国の緊急人道支援や開発支援の事業管理を担当。
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