【スタッフ・ブログ】国際NGO ワールド・ビジョン・ジャパン

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ワールド・ビジョンでの仕事を振り返って~「現場」とともにあった11年半

現場ってなんだろう

「防災」のシゴトの意義と面白さは、社会人としてスタートをきった前職の建設コンサルタント会社で教えてもらった。かけがえのない出会いや体験をきっかけに、ライフワークとして自然災害に関わっていきたいと思うようになった。

コンサルタントの仕事は、国を相手にした政策レベルの案件が多く、規模の大きな仕事に関わることができる醍醐味があった。その一方、もっと現場に届くことを実感できる仕事がしたい、もっと人の顔が見えるところで働きたい、そんな想いが芽生え始めた頃、ワールド・ビジョン・ジャパンでの緊急人道支援人材募集を目にした。

「現場」に近いところで防災に関わることができる!
これだ!という直感とともに、私のNGO職員としての道がはじまった。それが11年半前だ。

ハイチの子どもたちと筆者

ハイチの子どもたちと筆者

この11年半、希望したとおり多くの「現場」と向き合う機会が与えられた。そして、想像をこえた生々しさと向き合うことになった。それらのいくつかをこの場をお借りして束ねてみたい。

ミャンマー

2008年6月に入団後、一カ月をおかずに派遣されたミャンマーは、サイクロンの被災地での緊急人道支援の現場だった。
子どもを片手で抱え、水位があがる川の中、木の枝をつかみながら一晩明かしたというお母さんの声。目の前に座る女性が振り返り、言葉を紡いで語る自らの経験に、私の中のスイッチが入った。「この声を伝える人にならなければならない」-今思えば独りよがりな使命感にぴりりとふるい立たされたことを思い出す。
現場からの声には説得力があると強く感じた瞬間でもある。

ミャンマーではたくさんの「現場のプロ」に出会った。緊急の現場に颯爽とやって来ては、竜巻のように仕事をして去っていく世界中のワールド・ビジョンの同僚たち。比較的、地道に仕事をすることに慣れていた私の目には、彼らの一挙一動がまるでマジシャンのように映った。

自国で起きた一大事のために犠牲を厭わず働くミャンマー事務所のスタッフたち。NGO職員として最初の現場経験だったこと、今より大分若かったこともあり、何もかもが刺激に満ちていた。
また、しなやかに地域に馴染みながら自らのポテンシャルを見極め、支援に邁進する他団体の方々からは、ワールド・ビジョンのアプローチ以外にも、いろいろな支援の届け方があることを教わった。今でもよき師として交流がある。

ミャンマー事務所のスタッフと(右から2番目が筆者)

ミャンマー事務所のスタッフと(右から2番目が筆者)

ハイチ

史上もっとも多くの方が命を落とした災害の一つ、2010年のハイチ大地震。震災発生3週間後から1年半ほど滞在した。政情も治安も支援活動も、何もかもがとにかく混沌としていて、正直、いつまでたっても現場の全容はよく分からなかった。被災した方々の暮らすキャンプは常に不平や不満が充満し、人々はいつも苛立っていた。それらの根底にあったのは、支援に対する期待と裏切りの連続だったのだろうと今は理解している。

絶え間なく続く爆音や蔓延する疫病など、私自身、物理的・心理的な緊張感は常にあり、被災地の状況が一向に好転しないことは誰の目にも明らかで、支援するために派遣された者としてその無力さによく泣いた。
少しでも力になりたいと願う外からの支援の手、自発的に立ち上がり状況を打破したいという内部からの心底の願い。この双方が相まって初めて現場が動くものなのだと、ハイチでの経験から強く学んだ。が、双方ともに動き出す術が見いだせず途方に暮れているような現場でもあった。

日本

そして、2011年の東日本大震災。途上国の仕事とは打って変わり、自分の国、自分の育った地域が現場となった。小さな声、声にならない声までも拾い上げる仕事の繊細さに、毎日が緊張の連続だった。日本語での仕事、日本人との仕事、振り返ればこのときほど諸々の調整が難しいと感じたことは正直なかった。それだけに今でも様々な記憶がよみがえる。未だに消化しきれていないことが多くあるのも確かだ。

同時にこの経験を通じて、これまで諸々たずさわってきた海外での活動が、多くの障壁のある途上国が舞台なだけに、支援者の独りよがりな自己満足、傲慢な態度で臨んではこなかっただろうか、対峙する人々をきちんと理解し必要を届ける努力してきただろうかと、過去の現場と向き合ってきた姿勢をあらためて振り返り、問い直すきっかけとなった。

転機

個人的な大きな転機は、このタイミングで自身が母親になったことだ。
物理的な働き方は大きく変わり、それまでの体力任せにガムシャラに突っ走る仕事のやり方はできなくなった。
一方、それと引き換えに、どこか仕事を単に仕事と割り切ることなく相手を人として自然に捉え、肩肘はらずに「現場」と向き合えるよう、自身の姿勢が変化してきたように思う。
仕事の内容もそれまでの緊急人道支援から、もっとじっくりと地域に関わる開発の分野へとシフトした。

アフリカ

その後、しばらくアフリカ数カ国の開発事業を担当し、日本事務所から定期的に現場に出張する期間が続いた。未知だったアフリカの国々では驚くような世界の現実を見せつけられた。中でもコンゴ民主共和国に初めて出張した際の、道端で倒れていた瀕死の男の子との出会いはおそらく生涯忘れることのない衝撃的なものだった。年の頃は当時の自分の息子と同じ2-3歳くらいで、ひどくやせ細っていた。近所の方の簡単な説明からだけでも、その地におけるその子のおかれた環境は、複数の課題が複雑に絡み合っていることがよく分かった。ちょっとやそっと何かをしたくらいでは何も変わる気がしない。それが率直な気持ちだった。

すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる – Do not stop doing something just because you cannot do everything」-大きすぎる課題を前に団体の原点に戻る思いだった。

この子のことは今でもふと思い出す。

ネパール

日本をベースにした仕事が続き、そろそろ現場に戻りたいと疼きだした頃、事業監理のための駐在の機会に恵まれた。現在、プロジェクトマネジャーとして従事しているネパールでの防災の仕事だ。

ネパールの子どもたちと筆者

ネパールの子どもたちと筆者

現場との関わり方には、人間関係と同じで、それぞれに相応しい適度な距離感がある。ネパールでは子連れで駐在していることもあり、外国人といえども実際にその国の社会システムの中に身を置きながら事業を実施することになる。例えば、ネパールで学ぶ自分の子どもの教育について考えながら、同じシステムの中にある国の子どもたちに裨益する教育プロジェクトを動かす。これは、私にとっては初めての経験であり、臨場感あふれるとても恵まれた機会でもあった。

ネパールは、2015年に大きな震災に見舞われ、復興や新たな防災の大きなダイナミズムの中にある。また連邦制が布かれ、地方分権化が進む変化の渦中にある。

一方、そんな大きな枠組みとは一見何の関わりもないように、日常生活が脈々と続く事業の現場。いつか起こる災害のために備えるなどという発想は皆無に見えた。
本当の意味で現場に届く活動は、結局は外からの押し付けではなく、人々が自分のこととして気づき主体性をもって取り組むようになること。防災はこれまで自分が生業としてきた仕事であり、防災大国日本の知見を活かしたい、と意気込むのもいいけれど、まずは私自身が、現場のスタッフを何よりも尊重すること、その上で事業地の文脈に沿った理解が必要だと考えた。

最前線に立つチームと幾度となく話し合い、手間を惜しまず何度も事業設計を変更した。私自身も事業を動かす傍ら、ネパールの大学でこの国の防災について改めて学び直した。現場に足を運ぶ度に地域の人々と交わす会話から、手ごたえのようなものを感じ始めたのは確かだ。

だからといって著しく事業の質が高まったかと聞かれれば、やはり大きく頷くことはできない。ただ、東日本大震災の支援に関わった際に感じた、「どう現場と向き合うのか」という自身への問いに対し、私個人のスタイルが一つできてきたのかもしれないということを、この事業の終わりを迎えるとともに感じている。

11年半を振り返り

知らなければならない世の中の課題は山積している。しかし、その文化や背景をともにしていない者にとって、それらを実感もって「知る」あるいは「わかる」というのはなかなか難しい。一際、想像力の乏しい私にとって、その点、仕事として真っ向からこれらの課題に真剣に関わらせていただけたことは幸いだった。

現場では、好奇心を湧き立たせたり、試行錯誤を重ねたり、いろいろな挑戦があった。自分にとって未知数なことが多いだけに、自分で何かを動かしている感覚に陥ったり、頑張れば突破できるという思いを抱き、アドレナリンがみなぎることもあれば燃え尽き症候群に陥ることもある。

でも一人の聖書の御言葉に立つ者として、最後は主のみこころが成るという真実を、事あるごとに教えられてきた。
支援に携わる者として一つの大きな支えになっている御言葉を紹介して、最後としたい。

「人は心に自分の道を思い巡らす。 しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である 」(箴言16:9)

一つひとつの出会いに感謝して。

 

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この記事を書いた人

加藤 奈保美ネパール駐在 シニア・プログラム・コーディネーター
神奈川県生まれ。早稲田大学・同大学院理工学研究科にて、アジアの建築史について学ぶ。在学中に阪神淡路大震災でボランティアを経験したことから、防災や被災地支援がライフワークに。卒業後は建設コンサルタント会社に勤務。自然災害を中心とした国内外のインフラ事業に従事する。2008年6月、ワールド・ビジョン・ジャパンに入団。サイクロン後のミャンマー、大地震後のハイチで復興支援に取り組む。東日本大震災後は、一関事務所の責任者として岩手県に駐在した。2014年4月から、アフリカのスポンサーシップ事業を担当後、支援事業部 開発事業第2課に所属。2017年1月から2019年12月までネパール駐在。2020年1月退団。
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