4月17日(日)。熊本市内に着いたときはすでに夕暮れ時だった。
熊本空港が閉鎖になったので福岡からレンタカーで一路南下。ひどい渋滞だった。
目指していたのは益城町の総合体育館。
総合体育館の運営管理をしているYMCAの方とは、団体の同僚が14日の地震直後から知り合いで連絡を取り合っていた。16日の本震後は避難者の数が一気に増えたことから、水や食料の心配もあってかなり逼迫した様子だったという。
同僚とふたりで福岡から避難所に電話し、いま、足りなくて困っているものを聞き、できるだけのものを大手スーパーで調達。緊急物資支援として届けるとともに、支援ニーズの初期調査を行うために現地入りするところだった。
熊本市内は思いのほか落ち着いた様子だった。建物の被害も車中からの目視ではわからず、自家発電なのか電気が通じているのか、街には灯りがあった。家族連れで歩いている人々もいた。途中公園で見かけた給水車だけが、普通の状態ではないことを物語っていた。
けれど益城町に入ったとたん、景色が一変する。
あたりは真っ暗で漆黒の闇。何も見えない。車のヘッドライトが照らす先に、崩れ落ちた建物の一部が浮かびあがる。斜めになった壁。落ちた屋根。傾いた家が道にせり出したのを避けるようにジグザグ気味に進む。今、大きな余震があったら危ないな、と思いつつ体育館を目指す。
暗いのでカーナビが頼り。もうすぐだ、というところでいきなり目の前に「通行止め」の赤いテープが現れる。信号が機能していないからだろう、警備の方が赤色灯を持って車の誘導中だった。
「益城の体育館に支援物資を届けたいのですが」
窓を開けて聞くと、
「すみません、私も他県から応援で来ているので、この辺の道はわからないんですよ。ただここから左折はできません。土砂が崩れて道を塞いでいるし危険ですから。」
お礼を言って、とりあえず通れる道路を、体育館とは反対の方向に進む。窓を開けたときにプンと土の匂いがした。見えないが、すぐ近くで土砂崩れがあったのだと感じた。
カーナビが使えないとなったら、あとは勘と運でたどり着くしかない。同僚も私も方向感覚には自信がない。方向感覚があったって周囲は真っ暗でどうせどっちが北かもわからない。ま、なんとかなるだろう、と車を走らせると、暗がりの向こうにうっすらと人影と赤色灯が見える。はっぴを着た地元の消防団の男性だった。
「体育館に物資を届けたいのですが」
一瞬考えた男性は、すぐに気を取り直した様子で丁寧に道順を教えてくれた。
頭の中には地元ならではの詳細地図があるのだろう。
通行止めの道路も余震とともに刻々と増えているようだった。
じっくり考えながら、よそから来た私たちにわかりやすいように説明してくださる。
そこには大規模直下型地震を体験した直後とは思えないような、落ち着きと的確な判断と、なにより温かい親切さがあった。
言われた通りに進むと、次の辻にも同じようにはっぴ姿の消防団の方がいた。
そしてその晩、私たちはいくつもの交差点で、何人もの消防団の方々に助けられながら何とか体育館にたどり着き、支援物資を届け、その後の支援の方向性についてYMCAの方と打ち合わせることができたのだった。
春先の夜は冷える。ずっと立っている消防団の方が見えるたびに、車を停車させて道順を確かめながら、お疲れさまです、と声をかけて進んだ。途中、
「寒くて大変ですね。みなさん、交代しながら立っておられるのですか」と聞くと
「いえ人数が足りないので交代はしていません」
「え。じゃあ地震のあとずっと誘導をされてるんですか」
「ええ。最初の地震のあとから、夜は毎日です。」
地元の消防団ということは、自宅は当然この周辺だろう。いくら消防団員とは言え、余震が続く中、家や家族のことは心配に違いない。大変な中での献身的な働きにただただ頭が下がる思いで走っていたとき、ふと私たちが、ありがとうございます、とお礼を言っている意味に気がついた。
もちろん、道を教えてくださりありがとう、の意味もある。
ただ、今から思い返してもあのときの気持ちは、私たちが支援をするのを助けてくださってありがとうございます、というものに近かった気がする。
私たちのようなNGOは、人道主義とか緊急支援というカタイ高邁な言葉を掲げているが、要は、いま目の前で困っている人を少しでも助けたい、そのための行動を起こすのが使命なのだと思っている。かなりカッコつけている感じだが現実はどうだ。実際には今回のように、土地勘のないところで支援を始めることさえ簡単ではない。あたりまえのことだが、私たちだけではなにもできないのだ。
あの暗闇の益城町の中で、避難されている方々に何とか緊急支援物資の第1弾を届けることができたのは、同じように被災していた方もいたに違いない何人もの消防団員に道を教えてもらったからだ。その姿に勇気や励ましをもらったからだ。支援をしに行ったつもりが、助けられる。奮起させられる。
助けてもらって初めて支援ができる。
それは、5年前の東日本大震災での緊急復興支援でもそうだった。
今回の熊本でも、あのあともほんとうに多くの方や企業のみなさんに助けていただいて、何とか支援が形となった。
助けられながら支援をする。深い思いを抱きながら、ほんの少しに違いないが何かの支援ができることを感謝している。
そしてこれからもたくさんの方々に助けていただきながら、まだ大変な思いをされている熊本の方々に、また東北の方々や途上国の貧しい子どもたちに、少しでも多くの支援や励ましを届けていきたいと切に願っている。
この記事を書いた人
- 青山学院大学を卒業後、国際協力銀行(JBIC)前身のOECFに入社。途中英国LSE(社会政策学)、オックスフォード大(開発経済学)での修士号取得をはさみ、アフリカ、インドネシア、フィリピンにおいて円借款業務を担当。母になったことを契機に転職。東京大学にて気候変動、環境、貧困など21世紀の課題に対応するSustainability Scienceの研究教育拠点形成に従事。「現場に戻ろう」をキーワードに08年10月よりWVJに勤務。アフリカ、中南米、ウズベキスタンを担当。2011年5月より、東日本緊急復興支援部長。2013年4月より副事務局長。2017年4月より事務局長。2020年4月より現職。青山学院大学非常勤講師、JICA 事業評価外部有識者委員、JANIC理事、日本NPOセンター副代表理事
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