【スタッフ・ブログ】国際NGO ワールド・ビジョン・ジャパン

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「今、私にできること」~”何もかも”はできなくとも、”何か”はきっとできる~

私のブログの執筆者紹介に記載しているように、私の海外途上国との関わりは、1989年11月に青年海外協力隊に参加してバングラデシュへ派遣されて以来、時の経つのも早いもので26年にもなります。

その間に、途上国で3カ月以上暮らした国はバングラデシュの5年以上を筆頭に、ネパールが3年6カ月、アフガニスタンが8カ月、インドが4カ月となります。

言わずもがなですが、やはり長期滞在、つまり生活した国や地域には愛着がわくもので、新聞記事でもこの4カ国の名前が目に入るとしっかりと読みますし、テレビ番組でもこれらの国名の入っている番組は内容をチェックして、その内容によってはしっかりとビデオに予約録画して、後でじっくり見たりします。

バングラデシュの支援地の子どもたち

バングラデシュの支援地の子どもたち

ワールド・ビジョン・ジャパンで毎日働く私として「今、私にできること」といえば、この団体で与えられた職責をしっかり果たしていくことしかないと思います。などと言ってしまえば、何も面白くないブログになってしまいますので、少し発想を変えて、これまでの私の26年間のこの業界での経験の中で「私にできなかったこと」に関連して少しお話しできればと思います。

上記のようにバングデシュでの経験が長いので、バングラデシュ滞在中の「私に何もできなかったこと」として今でも一番記憶に残っていることを以下に記します。

バングラデシュといえば、皆さんは何が頭に浮かぶでしょうか?今では、日本の有名企業も進出するなど経済成長関連のニュースも目立つようになったバングラデシュですが、以前から洪水、サイクロンなどの自然災害が多い国としても記憶している方も多いのではないでしょうか?

私は過去に2回バングラデシュで長期滞在したのですが、2回とも活動地は違うのに、地域のほとんどが水没するような洪水を経験しました。
1回目はシレットという東北部の県内のバラゴンジ郡に滞在していたときに局所的な大雨によるもので、2回目は当時100年に一度の大洪水といわれ、ダッカ市内の高級住宅街も水没するようなものでした。1回目のときは、私の住んでいた研修所に軍隊の人たちが泊まって救援活動をしていましたし、2回目のときは私自身が首都のダッカに避難するために活動地を離れなければいけませんでした。

このとき私が感じたのは、痛烈な自分自身の無力感です。

1回目のときは、自分の部屋のドアの目の前まで水がきていました。私は部屋からでることもできず、その上、この期間中は料理もしていたので、生ごみなどの生活ごみをこのドアの前に立ち、広々と広がる洪水の水の中に捨てなくてはいけませんでした。なんとも言えない無力感を感じました。
軍隊が毎日モーターボートに乗って救援物資を運んでいるときも、私はただそこで生活しながら水が引くのを待っているだけで、私よりもはるかに厳しい生活を強いられている人々には何もできない…。2回目のときもそうでした。自分は結局は安全なところに非難していく…。自分では何もできないのだ…。

生まれた国が違うだけで、少なくとも毎日の食事に困ることがない自分がここにいる一方で、大変な状況で暮らさなければいけない人たちがいる…。だからこそ、少しでもこの状況を変えるために何ができるかはわからないけれど、何かできることをしたい…。
これが私がこの業界で働きたいと思ったきっかけであり、驚いたことに、これがワールド・ビジョンの創始者に与えられた思いと似ているものでした。

支援地の子どもたちと筆者

支援地の子どもたちと筆者

今、私にできること、それは少なくとも毎日自分に与えられた仕事に誠実に取り組むことであるし、特にクリスマスキャンペーン中のこの時期は、毎朝PCを立ち上げてワールド・ビジョン・ジャパンのホームページに示される新しく増えたチャイルド・スポンサーさんの数に感謝しつつ、さらに多くの人たちがこの支援の輪に加わってくれるように祈るだけである。

あと700人のチャイルド・スポンサーを募集中!
「この子を救う。未来を救う。」クリスマスキャンペーン

チャイルド・スポンサーシップ あなたの寄付が生み出す、8つのうれしいこと

クリスマスまでの「この子を救う。未来を救う。」キャンペーン期間中は、ワールド・ビジョン・ジャパンのスタッフ、ボランティア、インターンの支援に携わる想い「今、私にできること」シリーズを掲載中。次回は、いよいよ最終回。12月24日、事務局長片山の「大切な存在だと伝えたくて」をお届けします。引き続きよろしくお願いします。

この記事を書いた人

今西浩明
1983年大阪府立大学農学部農芸化学科卒業後、総合化学メーカーの日産化学工業株式会社の農薬部門で6年間勤務。同社を退職後、1989年11月より3年1カ月間、国際協力事業団(JICA)青年海外協力隊員としてバングラデシュへ派遣され稲作を中心とした農業・農村開発の活動を行う。その後、青年海外協力隊調整員として3年6カ月ネパールに滞在、次いで青年海外協力隊シニア隊員として再度バングラデシュに派遣されモデル農村開発プロジェクト・協力隊グループ派遣のリーダーとして2年3カ月間、農村開発の業務に携わる。
2000年9月より米国フラー神学大学院世界宣教学部(Fuller Theological Seminary, School of World Mission)へ留学、異文化研究学修士(MA in Intercultural Studies)を取得。ワールド・ビジョン・インディアのタミールナドゥ州パラニ地域開発プログラム(Palani Area Development Program) での4カ月間のインターンシップをはさんで、2003年9月より英国サセックス大学大学院に留学、農村開発学修士号を取得する。
2004年12月国際協力機構(JICA)アフガニスタン事務所企画調査員として8カ月間カブール市に滞在。2005年9月よりワールド・ビジョン・ジャパンに入団し、支援事業部 部長として勤務。
2021年3月退団。
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