ワールド・ビジョン・ジャパンは、今年設立30周年を迎えた。
僕が、ワールド・ビジョン・ジャパンに入団したのは1992年。まだ10人そこそこの小さなNGO団体だったころだ。それが今では、スタッフ77人、チャイルド・スポンサーも5万人以上と大きくなった。すべてはこれまで支援くださった、今もご支援くださっている多くの方々のおかげで、感謝してもし切れない。
そもそも、僕がこういう開発援助業界(NPO業界)に入ろうと思ったのは、二十歳ごろ、美大に入りプロの絵描きになりたいともがいていた時期だ。当時、巷ではエチオピアの大規模な飢餓を救うために、一流のミュージシャンが集まってBAND AIDという名前で曲を出し、世界に訴えていた。当時イギリスのミュージシャンやバンドが好きだった僕は、もちろん、毎日のように聞いていたが、エチオピアのことはあまりピンと来てはいなかった。何かはしなくちゃとは思っていたが、何ができるのかわからないまま、絵を描いていた。
だが、ある日、木炭でデッサンを描いていた時、ふと気づいた。木炭デッサンでは消しゴム代わりに食パンの真ん中の白いやわらかい部分を丸めて使うのだが、僕が消しゴム代わりに使っているこのパンを、アフリカのエチオピアの子どもたちに届けることが出来たらどんなにいいだろう、と。
ちょうど、木炭デッサンも思ったようにうまく描けず、自分の絵の才能にも疑問を持ちスランプだったのも手伝って、アフリカの子どもたちの口に入れば血となり肉となりうるパンを、このまま絵を描き続け下手なデッサンの消しゴム代わりに使い続けることに、何の意味もないと思ってしまった。他にも絵具や紙やたくさんの画材を消費し絵を描き続けたところで、アフリカのエチオピアの飢えた子どもたちに何ができるのかと、疑問を持ってしまった。ならば、このパンを、アフリカの飢えた子どもたちに届けることの方がどれだけ意味のあることだろう。そして僕はそうなりたい、パンを届ける手となりたいと思ったのだ。
その思いは、ワールド・ビジョン・ジャパンに入って25年の今も基本的には変わっていない。まずは、目の前の飢えた子どもの手にパンを届ける、そのためには何をしなくちゃいけないのかを考え、できることからやっていく。確かに一人ひとりの思いやそうした小さな行動だけでは、世界の貧困も飢餓も救えないのはわかっている。でも一人の思いや行動に共感した人がつながり協力し合うことで、少しずつ大きなことができていくのではないかと思う。
僕のワールド・ビジョン・ジャパンでの25年間は、本当にいろいろなことがあったが、基本的には何も変わっていないと思う。“何もかも”はできなくても、“何か”はきっとできる。その思いをかみしめながら、そして多くの方に支えられていることに感謝しながら、これからも歩んでいきたいと思う。
マーケティング第2部 支援者サポート課
石黒 克三(かつみ)
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【関連ページ】
・ワールド・ビジョン・ジャパンは設立30周年を迎えました
・【30周年記念特別企画】石けんがつなぐ!あなたと世界の子どもたち
・WVJの沿革と略年表
・国情報:エチオピア
・世界の貧困と子どもたち
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