「現代の奴隷制」とも言われる「人身取引(人身売買)」は、世界中に蔓延(まんえん)する深刻な人権侵害で、非人道的な行為だ。弱い立場にある人々が、搾取の目的で暴力や誘拐などの手段によって支配下に置かれ、人権が剥奪される。その被害者は推定約2090万人。しかし、これは氷山の一角にすぎない。
「人身売買は暗がりにはびこり、この犯罪には地球上のすべての国が関わっている」。ヒラリー・クリントン前米国務長官の言葉だ。事実、米国政府が発表する「人身売買報告書」の2014年版が対象にする国と地域は、世界188にも上る。人身取引による不正利益は約3兆円に上り、麻薬密輸、違法武器取引に次いで、地球上の犯罪ワースト3だ。
「人身売買報告書」は各国へ改善のための施策を勧告するとともに、4段階の評価をしている。日本は10年連続で4段階評価の上から2番目「最低基準を十分に満たしていないが、改善に努めている」に分類される。そして、「日本は人身売買被害者の、目的国、供給国、通過国である」という実態が明記されている。
この現状を、日本のどれだけの人が認識しているだろうか。私たちの日常には、「奴隷のように」扱われている人々によって作られた製品や食品が身近にある。人身取引も一般的な商品取引と同様に、需要と供給の中に存在しており、私たちのライフスタイルは需要の一端を担っているとも言える。
昨年、カンボジアの事業地を訪れた際、人身取引の被害者にインタビューする機会を得た。すると、カンボジアをはじめ多くのアジアの国々では、人身取引は経済的に窮乏状態にある家庭だけを襲う問題ではないという現状が見えてきた。
≪純粋な心 踏みにじる手口≫
たとえば、農村で暮らす家族が人身取引に巻き込まれるケースは、2つに大別される。困窮する家庭の中で年長者や女の子が家族を支えることを決意し人身取引に巻き込まれるケースと、日常生活は問題ないものの家族の病気や失業、自然災害などの理由から巻き込まれるケースである。
カンボジアの場合、内戦で残された地雷の影響や経済格差の拡大が、脆弱(ぜいじゃく)な家庭や地域に真っ先に影響をもたらしていた。インタビューした人身取引の被害者の家族は、内戦によって父親が片足を失ったことがきっかけだった。女性の性的搾取ばかりが取り上げられがちな人身取引だが、男性も労働搾取の被害者となっている。睡眠薬を飲まされて気が付いたら漁船の上、助けを求める手段がないまま無休無償で長時間にわたる重労働の日々…。中にはインド洋を泳いで逃げ、奇跡的に助かったという被害者さえいた。
また別の女性は、経済成長著しい隣国タイに仕事を求めた。さらに、農村地域に根強く残る出稼ぎ文化が彼女らのタイ行きを後押しする。「お母さんもおばあちゃんもこの林の抜け道を使ってタイに出稼ぎに行っていたのよ」という先祖代々伝わる出入国ルートを持つ家庭まであるくらいだ。その先に潜む人身取引の危険性を認識する方が難しいかもしれない。「タイでウエートレスの仕事がある」と言われ、ようやく仕事に就ける可能性を見いだしてタイ行きの車に飛び乗った彼女。しかし、待っていたのは売春宿だった。
入国手続きに必要だとパスポートを取り上げられ、部屋に監禁され、言葉も法律もわからず助けを求める術がない中、支配者の個人的な利益のために自分の性が売られ続ける。逃れようとすれば暴力を振るわれるだけでなく、家族にまで暴力が及ぶと脅される。無防備な少女たちをあまりに残忍な奴隷支配が苦しめる。驚くべきことに、彼女たちをだまし地獄へ陥れる人身取引業者は巨大な犯罪組織だけではなく、むしろ近親者が多いという。彼女たちの多くは、「ただ、家族を助けたい」という一心からタイへ向かったのだ。家族のために勉強を諦め、働くことを決意したのに、巧妙な悪の手口にひっかかってしまった。
被害者を「愚かだ」と責めることができるだろうか。私が同じ状況に置かれたら、同じ選択をしていたかもしれない。守りたい家族の顔が思い浮かんで胸に痛みを覚えた。家族のためにという純粋な思いが被害者を動かす原動力だった。その思いが利用され踏みにじられた。心が支配され、消えない傷を心に深く刻まれたのである。
人身取引は、人の心が取引される「人心取引」だと思った。7月30日は国連の「人身取引反対世界デー」。純粋な思いが不正に取引されない世界の実現を心から願う。
コミュニケーション課 松本謡子
※この記事はワールド・ビジョン・ジャパンの松本謡子スタッフが執筆し、2015年7月24日付SANKEI EXPRESS紙に掲載されたものです。
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