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あるNGO職員の初めての体験 - その1

鷹狩はバヤン・ウルギのカザフ系住民の伝統だ。今でも鷹を訓練し小動物を捕獲している。

鷹狩はバヤン・ウルギのカザフ系住民の伝統だ。今でも鷹を訓練し小動物を捕獲している。

小生、18年間日本と途上国の支援事業の現場を行き来してきた。あるときは、銃弾飛び交う紛争真っ只中のボスニアやソマリアであったり、あるときは地雷がそこここに敷設されているカンボジアやアンゴラの農村であったり、またあるときはマラリアの危険が大変に高い雨季のアフリカであったりした。しかし今まであらゆる危険から守られスケジュールどおりに無事に日本の地を踏み、家族の元に帰ることができた。しかし今回まさかの地で初めての経験をしてしまった。そのまさかの地とは、モンゴルの辺境、最西端のバヤン・ウルギ県、初めての経験とは盗難である。

3月上旬、モンゴルの人は暖冬だ暖冬だと口々に心配していたが朝の気温は零下20度程度で、頭を毛糸帽子で覆わないと耳が痛くて外出できなかった。到着2日目、首都ウランバートルからブロペラ機の国内便で西へ3時間あまり飛びカザフ人の住むバヤン・ウルギ県に到着した。この県は中国やロシアと国境を接しており、アルタイ山脈4000メートル級の山々に囲まれた盆地で人口は約96000人ほどだ。住民は殆どカザフ系モンゴルへで、牧畜で生計を立てている。空港のある県庁所在地バヤン市は、だだっ広い乾燥したとてつもなく広いオープン・スペースに庁舎、学校、アパート等がゆったりとした間隔で点在しており、日本の市街地という感覚はない。

さて、こんな田舎で盗難に遭ってしまったわけだが、状況は以下のようであった。

* まず、過去にタイへチャイルド・スポンサーをエスコートした際に3名の方がホテルの部屋でパスポートを盗まれた経験から、出張時には、貴重品はホテルに置かないことを個人的なルールにしていた。従って今回もウルギ市のホテルには貴重品は置かずハンドキャリーのバックにパスポート、現金、航空券、携帯電話、デジカメなどを入れ、事業予定地へ事業の形成調査へ出かけた。事業地は車で3時間程度であったが、その日は全体のスケジュールが遅れ、ウルギ市へ戻ったのが夜の9時30分を回っていた。

* 事業地に同行してくれた地元に住むWVモンゴルのスタッフが夕食を招待してくれていたので、ホテルに戻らずそのままスタッフのアパートに向かった。そして通常であればバックは肌身離さず持ち歩くのであるが、そのときは疲れていたことや、まさかこんな田舎に泥棒は居ないだろうという油断から車の後部座席にバックを置いて来てしまった。またさらに悪い事は、通常ドライバーは必ず車に留まって車をガードするものであるが、そのときは、ウルギ市に入る一キロほど手前でタイヤがパンクしてしまい、零下20度の中でタイヤ交換をしてくれたため彼の体は冷え切っていた。従って暖かい部屋で一緒に食事をとる事にした。つまり車は暗闇の中5階建てのアパート前にガード無しで食事の時間の約40分程度駐車された状態になった。

* 食事を終えそろそろ帰ろうかとまずドライバーが車に戻った、と思ったら血の気の引いた顔で部屋へ戻ってきて「やられた!」「やられた!」と叫んでいる。彼にとっても初めての経験だったらしい。

* 車に戻って状況を見ると、ロシア製の旧式に車だったので、前部座席の三角窓を壊し、後部座席に置かれてあったバックの取っ手に先をフック状にした針金のようなものを引っ掛け、そして三角窓までたぐり寄せて盗んだ様だった。どうやらたぐり寄せる最後の瞬間に携帯電話はファスナーを開けたままであったバックから前部座席へこぼれ落ちていた。このような状況下では携帯電話は生命線であり、それが無事だった事は不幸中の幸いであった。

* その後直ちにスタッフが地元警察に電話した。彼らが到着する前に、泥棒にとって足が着きやすいバックやパスポートが、近くに捨てられてないか酷寒の中1時間ほどまわりを探したがなかった。毛糸の帽子も取られたバックの中にあったので耳がちぎれるように痛かった。

* 警察が来てから30分ほどスタッフが事情を説明してくれたが、犯人に繋がるような物や状況は見えず、その後警察署で1時間ほど事情聴取と調書の作成に付き合わされた。その際に何度も「ドライバーは怪しいと思わないか?」と言う質問を受けた。というのはドライバーが泥棒と結託し悪事を働こうと思えば可能な状況だったからだ。わたしは、「それは絶対無い」と何度も答えた。すべてが済み、部屋を出たら、警察に疑われているのを察していたのだろうかドライバーは部屋の前で心配そうにずっと待っていた。私は思わず「心配するなよ、君のせいじゃないのだから」と声を掛けたが、依然彼は顔を強張らせていた。

* 翌朝はウランバートルに帰る予定であった。盗まれた貴重品は出てくる可能性はないと判断した。また、失った物をくよくよと考えるより、2日後予定通り日本に帰れる事が先決問題だと心に言い聞かせた。そしてその為にやるべき事を頭の中で整理していた。タイでスポンサーのパスポートが盗難にあい奔走した経験から、帰国するには何が必要で何処に行けばそれが得られるかは分かっていた。先ず必要になるのが、地元警察からの盗難証明書である。それをもって日本大使館へ行き、出国の際に必要になる帰国だけのために使える簡易のパスポートを取得しなければならない。そしてそのパスポートにモンゴルの入国管理局から入国を証明するスタンプをもらわなければならないのだ。一方航空券もないので、航空会社へ行き手数料を払って再発行をしてもらう必要もある。

* 昨晩は遅かったので、調書は取られたが盗難証明書をもらうことが出来なかった。これが無いままウランバートルに帰っても何も動かない。警察は8時にならないと業務が始まらないらしい。業務が始まっても直ぐに証明書を作成してくれるという保障はない。警察署から空港までは、車で約1時間かかる。証明書をもらってから空港に行ったのでは10時30分発の便の搭乗手続きに間に合わない可能性が大きい。仕方ないので、私は直接空港へ行き、スタッフとドライバーは警察で証明書を貰って、空港で待つ私の所へ届けて貰う事にした。

* 空港で証明書を待っている間にウランバートルの事務所に連絡し、日本大使館の電話番号とパスポートの発給を担当している大使館員の名前も調べてもらった。そして直ぐにその方へ電話をし事情を手短に説明し、しなければならいい事の指示を得た。また、日本の事務所にも電話をし事情を説明し、もしかして帰国が遅れる可能性があるので、予定していた会議等がキャンセルしなければならない旨を連絡した。自宅の妻は発熱した乳飲み子と3人の幼児を抱えて24時間体制の状態であったので、これ以上の精神的な負担をかけまいと、連絡は控えた。

* フライトの出発時間が迫っていた。スタッフと携帯でやり取りは出来たので、警察で証明書を貰い空港へ向かっているのは分かっていた。しかし空港の待合室の時計はもう10時25分を指していた。はらはらしていると、搭乗のアナウンスが開始されたのとほぼ同時にスタッフとドライバーが証明書を持って駆け込んできてくれた。スタッフは「私の町でこんな事が起こってしまって申し訳ない」と泣きそうな声で言った。ドライバーも強張った顔を崩さず、「申し訳ない。」とだけ言った。私は努めてにこやかに「誰のせいでもないよ、これから全てうまくいって無事に日本に帰えるから。心配しないで。」といってお別れの握手をにこやかに交わした。しかし内心は不安だらけであった。
本当に予定通り2日後に日本に帰れるのだろうか??

つづく、、、。

この記事を書いた人

高瀬一使徒
大学卒業後オーストラリア留学などを経て、青年海外協力隊に参加モロッコに2年間滞在。1989年にワールド・ビジョン・ジャパン入団。タイ駐在などを経て、1997年より支援事業部部長(旧 海外事業部)。現在までに訪れた国数約85カ国。4人の子どもの父親でもある。2014年3月退団。
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