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バンコクの発展とタイの農村

スリスリンADP内の協同組合のメンバーと

スリスリンADP内の協同組合のメンバーと

2006年の2月、タイ・バンコクで国連・難民高等弁務官事務所(UNHCR)が主催する2日間のワークショップにNGOのパネラーの1人として参加した。その後、タイのスリン県で1996年から実施しているADP(チャイルド・スポンサーシップで行なっている長期開発事業)の視察をする事ができた。バンコクは会議等で定期的に行く機会があるが、スリンのような農村地帯を訪問するのは10年ぶりであった。
急速な経済発展の恩恵を享受するバンコクの姿を見ると、東京オリンピックのあった1960年代の日本を彷彿とさせられる。バンコクにいる限り2004年の暮れプケット周辺をおそった津波の経済的影響は全く見られないばかりか、先進国の大都市にいるような錯覚に陥ることしばしばである。今回の僅か2日間の視察目的は、このようなバンコクの経済発展が、カンボジアと国境を接する農村県であるスリンの発展にどのような影響を及ぼしているか? また10年来行なってきたスリンADPの効果はどうか? というものであった。

バンコクの発展がスリンの経済発展に影響を及ぼしているか?
この疑問の答えはスリンADPに行く前に見つけていた。それはバンコクからスリン県にいたる幹線道路の整備である。交通量拡大に合わせる為にいたるところで道路の拡張工事が行なわれている。またその道路に必要な土を採取した跡地に旱魃対策のための貯水池、給水タンク等が建設されていた。このような公共工事は雇用を創出し地域住民に現金収入の恩恵を与えている事は明白である。また、道路整備により、バンコクへの流通が活性化され、スリンの地場産業である絹織物の需要は高まっているようだ。しかし、このような経済発展には、環境破壊や農村部の人口流失等のマイナス面も起こることを見逃してはならない。

スリンADPの効果はどうか? (貧しい人々の生活は豊かに変革しているのか?)
この疑問の答えも、Yesであった。タイでは貧しい農民たちの自立のために農業共同組合(Cooperative)を組織し、現金収入の道を拡大するために、魚の養殖、魚の加工食品製造、絹織物、洋裁による小中学校生徒の制服やバック等の製造、建築用ブロックの製造、牛銀行や米銀行の運営等様々な製造販売活動が定着していた。各活動はすでにADPスタッフのトレーニングにより、組合員が主体で運営されていた。農閑期にはバンコクに出稼ぎに行くことが主な現金収入の道であった貧しい農民たちは、自分たちの村でこれら組合の活動により、多いときには月1万円程度の現金収入を得ていた。人々の収入向上は、子どもの教育に対する期待にも反映されていた。子どもを育てる多くの組合員たちの願いは、「できれば、子どもを大学まで行かせたい。」であった。これは10年前には考えらなかったことである。 10年前の親たちの期待は、「子どもを是非中学校までいかせたい」であった。

最後に何年か前の新聞に、タイ人の自国に対する評価と日本人のそれとが比較して書かれてあった事がある。それに拠れば、タイでは80%以上の人が自国は良い国だと思っている。一方日本では20%台である。私はスリンADPの組合員に、子どもが大学を卒業したらどんな仕事につくことを望むか聞いてみた。殆どの人は大学の後はスリンに帰ってきてスリンで働いて欲しいと言っていた。「バンコクの大学を出て、そこで有名な企業に就職し、豊かな生活をして欲しい」という答えを予想していた私にとっては嬉しい驚きだった。

また中学生に、もしバンコクの大学に行ったらその後どうするか聞いてみたが、多くの子どもたちは、ここに戻ってきて学校の先生になりたいと答えた。
日本経済の高度成長期、多くの若者が豊かさを求めて東京や大阪に就職した。そして親たちは東京や大阪で働く我が子を周囲に自慢した。内心は田舎に帰ってきて欲しいと思いながら大都会にいる我が子を自慢した。それは自分の住む田舎に将来の希望や誇りがもてなかったからではなかろうか? スリンADPの人たちは自分の住む田舎にある種の誇りと希望を持っている。バンコクには無い豊かさに価値を置いている。スリンADPが貧しい農民にもたらした豊かさには、他を押しのけても豊かになるような荒っぽい競争原理はなかった。“自分たちの国(彼らにとっては住んでいる地域)は良い国である。だから皆がこの地で豊かに生活できるよう努力したい”そんな凛とした心意気を微笑みながら私の質問に答えてくれた人々に感じることができた。

この記事を書いた人

高瀬一使徒
大学卒業後オーストラリア留学などを経て、青年海外協力隊に参加モロッコに2年間滞在。1989年にワールド・ビジョン・ジャパン入団。タイ駐在などを経て、1997年より支援事業部部長(旧 海外事業部)。現在までに訪れた国数約85カ国。4人の子どもの父親でもある。2014年3月退団。
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