気仙沼の避難所への自衛隊の炊き出しが終了したのを受けるようにして、コミュニティ・キッチン(食事の用意ができる調理施設)設置による支援をさせていただけることになりました。
多くの皆さんからの募金がこのような支援となり、震災4ヶ月を過ぎてもまだ避難所におられる皆さんの助けとなっていることに感謝しつつ、それと同時に、以前のようにそれぞれのご家庭での食事が出来るようになるための支援も、より一層急ぐ必要があることをひしひしと感じさせられるものでもあります。
このことも含め、この震災では、普段はある意味何気なく口にしている食事というものが、人にとって、生きるためだけではなく、精神的にも如何に大切なものであるかということを、私自身強く思わされています。
震災2日後に被災地に入った私たちは、小さな車に積めるだけの離乳食などの支援物資とともに、自分たちの食糧としてショッピングバック3袋程度の飲み物やパンなどを車に積み込んでいました。
しかし、震災直後の東北地方の様子は、私たちの想像をはるかに超えたものでした。大都会の仙台市内を含め、東北地方全体の店という店がほぼ全て閉まっていました。
そのような中、支援活動のためのガソリンの確保に苦労したのはもとより、自分たちの食糧も瞬く間に減り、あらたに補充する術もありませんでした。
その頃、私たちは、仙台の青葉荘教会のご好意で教会堂に宿泊させていただいていたのですが、そんな私たちの様子を見て、牧師先生方が、ガスも止まり、自らの食糧にも事欠く中で「こんなものしか準備できなくて・・・」とおっしゃりながら折に触れ温かい食べ物の差し入れをして下さいました。それは、心に染みるぬくもりでした。
そのような中、ヤマザキ物流さんが支援物資の運搬にご協力くださり、支援物資とともに、私たちスタッフのための食糧も運搬してくださいました。
そこには、東京のスタッフが準備してくれた水やインスタントスープ、カップ麺などに加え、ヤマザキ物流さんからの差し入れのヤマザキパンが沢山入っていました。文字通り、私たちはそれらの食糧によって生かされていました。
そして、3月21日に仙台から登米市にベースを移す時には、スタッフのお母さんの幼い頃の友人であるTさんご家族が、知り合いの旅館に掛け合って私たちの宿の手配をして下さっただけでなく、貴重なガソリンを使って私たちを旅館まで迎えにきて下さり、飲食店が再開するまで、ご自宅での食事に招いて下さいました。
ご家族の飲食も不自由なあの状況の中で、皆さん笑顔で私たちに食事と安らぎの時をご提供下さった温かいお気持ちは、決して忘れることはできません。
私たちWVJのスタッフは、そのような多くの方々に助けられ、ここまで活動を続けてくることができています。
そして、これからも、多くの皆さんからの貴いご支援と、多くの方々のご協力や助けをいただきながら、ワールド・ビジョンの創設者の言葉にあるように、「すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かのために何かはきっとできる」との思いを握り締め活動を続けていきたいと願っています。活動は今も続いています。
この記事を書いた人
-
関西大学卒業後、地質調査・井戸掘削会社および斜面保護・緑化会社に勤務。現場作業や土木施工監理技師として施工管理などを担当。
1992年に渡英し、グラスゴー・バイブル・カレッジに留学。
1995年に帰国し、ワールド・ビジョン・ジャパンに入団。
2000年度よりマーケティング部長(旧 国内事業部長)。
2015年度よりマーケティング第二部長。
2017年度よりサポートサービス部 教会パートナーシップ・コーディネーター。
2018年6月退団
このスタッフの最近の記事
- アフリカ2015年11月23日「今、私にできること」 ~急ぎ、急ぎすぎない支援~
- アフリカ2013年12月18日砂塵の彼方の小さな種
- アジア2011年12月5日冷蔵庫のベンチ
- アジア2011年11月8日40億円と中古のTシャツ