3月に南スーダン(最後の2カ月半はケニア)での駐在を終えて、いろいろ思い返すことがあったので、ブログに書きたいと思う。
2013年12月にジュバで衝突が起こった時に、私は東京事務所からの出張者と共にそこにいた。16日の朝に一時帰国の予定だったからだ。15日の夜に衝突が起き、それにまったく気づかず(周りには気づかなかったことに呆れられたが)朝起きると、乗るはずのフライトがキャンセルされていると連絡があった。
困ったなぁ、とのほほんと外に出たら、一緒に住んでいた同僚たちが集まっている。どうしたのかを尋ねると、「お前には聞こえないのか?」と言われ、耳を澄ませると銃声がした。
正直なところ、南スーダンという国では、散発的な銃声は通常より頻度が多く聞かれる。そのため、大方明日くらいには乗れるんじゃなかろうか、と楽天的に考えていた。
そのうちニュースやネットで、どうやら深刻な状況らしいとわかり、屋内退避のための緊急食糧と水を全員分わけ、発電機を節約することにした。テレビでは、南スーダンのサルバ・キール大統領が軍服を着て事態の鎮静化について話しているシーンが何度も映っている。その間も、散発的に銃声が聞こえている。私たちの住んでいる場所は、激戦区から離れていたので遠くに聞こえていたが、後から聞くと戦闘が起きた付近に滞在していた人々は銃声が絶え間なく続いていたらしい。
外出禁止時間前に、とりあえず数人で緊急食糧を補充するために外に出た。
日暮れ前のジュバは、明らかに閑散としていて、いつもの活気がない。いつも車で渋滞しているにぎやかな大通りを通り過ぎるのは、武装した兵士を乗せたトラックばかり。トラックが通り過ぎる音以外は、まったく音がしない。まばらに街の人々の姿はあるが、ひとかたまりに壁に集まって、すこし銃声が続くとクモの子を散らすように消えて行った。ここまで来て私たちは、やはりすぐ家に帰るべきと判断して戻った。
衝突発生から少しすると、電話のネットワークが遮断され、発電機も、家によっては、発電機の音がうるさくて銃声が聞こえないから、自粛するようにと兵士から通達されたり、どんどん周りが物々しい雰囲気になっていって、予備の燃料や、水などを考えると少し不安になった。幸い滞在していた家のインターネットが切断されることはなかったため、日本の家族や、事務所の人々、大切な人々に連絡が取れたのは救いだった。
それから4日間程度、私たちはジュバで自宅退避をしながら、東京の事務所の人々と連絡を取り合い日本行のチケットを予約し、19日に出国した。
ジュバ空港は、いつもからごった返していて、「並ぶこと」や「時間を守る」ということからかけ離れた空港であるが、今回ほどの混乱は見たことがなかった。朝7時に空港についたが、まず空港に入る前に入口に人だかり。
空港職員が、並ぶように!と叫んでいるが、皆それどころではなく、前から後ろから「押せ!押せ!」と怒号が聞こえる。そのうち人の波が弓なりになり、ぎゅうぎゅうに押しつぶされたまま私もその流れで空港の中へ入った。
出発カウンターでは、その時点で複数再開していた航空会社のカウンターにチェックインする人の列が、縦横斜めと無造作に折り重なっていて、たくさんの人々が優に30キロは超えているであろうスーツケースを頭にかついで、チェックインを待っていた。
南スーダン人からすると子どもサイズの私は、スーツケースが彼らの頭からずり落ちてくるたびにひやひやしながら、人の波に窒息しそうになりながら、汗みどろでチェックインを終えた。
飛行機は予定より1時間以上遅れて離陸した。ホッとした。
正直、私が体験したことは、南スーダンで働く他の援助関係者や、南スーダンの人々が経験されたこととは比べ物にならないのだが、出国し、日本に着いたときは、ただただ疲れていたことしか覚えていない。少しずつ、WVJが7年という長い時間をかけてきた支援が、このような形で無に帰してしまうことに、悔しい気持ちと、悲しい気持ちと、これから南スーダンがどうなってしまうのか、先が見えない徒労感にいっぱいになっていた。
生まれたての赤ちゃんが、最初は何もできずに歩くのも不安定なように、新しい国も同様にその歩みは不確かだ。法整備や病院や学校、道路など南スーダンの人々に必要不可欠な施設の整備、食糧の確保や安全な水を供給することなど、ほとんどすべての面において、南スーダンは多くの課題を抱えたまま独立している。独立後も、主に石油の利権がもとで、スーダン(北)側と国境について長期にわたって意見の衝突があり、国民の生活は悪化の一途をたどっていた。それに最近の衝突が起こっている。
2014年5月時点で、反大統領側と、大統領側は和平合意にサインしたものの、コレラが発生したり、治安も改善しているとは言いがたく、さらに今年の農作物の収穫はほとんど見込めないことから、多くの人々が食糧不足に陥ると予想がされている。
どの国でもそうだが、南スーダンの将来を担うのは、そこに生きる子どもたちだ。その子どもたちが、飲んでもおなかを壊すことがない水を飲むことができて、毎日学校にいくことが普通になって、健やかに育ってほしい。そして平和で豊かな国づくりを担って行ってほしい。そのために、今、彼らの生き抜いていく環境を、少しでも整ったものにしたい。その思いで、WVJは、JPFと協力し、2006年から北部のアッパーナイル州で現在も活動を続けている。
私はこの業界に入った時に、よもや南スーダン(当時南部スーダン)に行くことになろうとは思いもしなかったし、正直仕事ができるか不安だった。駐在中なんども「もうできない」と思った。
それでも何とかやっていけたのは、南スーダンの人々と、南スーダンに関わる人々の、この国を良いものにしていきたいという情熱に助けられてきたところが大きいと思う。休日も惜しまずにともに働くスタッフや、国の文化や風習について説明してくれたり、話し合いをするために遅い時間でも残ってくれるコミュニティの人々、生き生きとした笑顔を見せてくれる子どもたち。一つ一つに助けられ、「もう少し頑張ろう」と思えた。
そんな人々の思いが、今回の衝突で、無残に裏切られたんじゃないかと思った。日々の食べ物を得ることもままならない人々が、国を良くしていきたいと希望を持って語るさまを、猛暑のなか辛抱強く、教育の必要性について話を聞く子どもたちの姿を思うと、やるせなさでいっぱいだった。
1月に東京で行われた南スーダンについてのシンポジウムに参加した時に、「今までの支援で何が残ったと思いますか」と問いかけをされたことが、私の心にずっと残っている。
私たちがしてきたことは、何か残ったんだろうか。度重なる戦闘で、インフラ施設的な物はほとんど破壊されている。校舎も真っ先に兵舎になったり、国内避難民の人々の一時滞在所などとなり、子どもたちの授業が中止になった。
もし何か、少しでも残っているとしたら、私たちが伝えてきたメッセージではないかと思う。どんな状況にあっても、子どもたちは学校に行き、教育を受ける権利があること。安全な水を飲むこと、手を洗うこと、自分の身の回りを清潔にすることで、多くの病気が防げること。
子どもたちの毎日を、より良いものにしていくために、大人がどのようなことができるのか。争いが起こった時に、暴力ではなく、話し合いで解決していくこと。私たちは事業を通して、たくさんのことを伝えてきた。それを聞いた人々の中で、少しでもそのメッセージに共感し、それを覚えていてくれる人が一人でもいたら、私たちは南スーダンで何かをしたと言えるのではないかと信じたい。
また手前味噌なのかもしれないが、困難な時にコミュニティの人々と悩み、悲しみを共有し、ともに歩もうとする南スーダン事務所で働くスタッフの姿は、南スーダンの人々に苦難の時に、誰かがともにいてくれる、という思いを残したのではないかとも思う。
現在も、衝突で荒廃したアッパーナイル州では、WVJとJPFは協力して緊急支援を行っているし、今後も許される限り、WVJは南スーダンの人々に寄り添っていく予定にしている。
今後南スーダンがどうなっていくのかは、私には分からない。でもその国に住む人々の思いは、少しでも知っていると思っている。彼らの温かい思いと、強い志がいつか実ることを、心から祈っている。
この記事を書いた人
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イギリス、マンチェスターメトロポリタン大学にて政治学部卒業。
大学在学中にWFP国連世界食糧計画にてインターン。
2010年9月より支援事業部 緊急人道支援課(旧 海外事業部 緊急人道支援課)ジュニア・プログラム・オフィサーとして勤務。2012年9月よりプログラム・オフィサーとして勤務。2016年7月退団。
趣味:読書、映画鑑賞、ダイビング
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